谷崎潤一郎『文章読本』(中公文庫)について以前某所に書き込んだことがあるので転載する。(元の書き込みをやや修正した)
谷崎キャンペーンですか。『細雪』しか読んだことはありませんけれども,あの文体は好きです。
それとは別に,今日は偶然彼の『文章読本』を読んでました。
本書に「鑑賞者の側に立つ人といえども,鑑賞眼を一層確かにするためには,やはり自分で実際に作ってみる必要がある」とあります。多分ご存知の通り,私も書道の部員なのですが,最近それなりに熱心にしている結果,以前は「何がよくて何が悪いんやらようわからん」という感じだったのが,多少は判るようになった気がします。前に一度友人と上野に書展を見に行ったことがありましたが,恐らく今同じものを見れば大分印象が違うでしょう。
本書はもちろん文章についてで,「文筆業に携わるのでなくても,文章に対する感受性を増すには自分で文章を作る必要がある」という主張なのですが,絵画や書道に限らず,文学についてもそういうものなのでしょうか。何かそういう経験ありませんか。
もう一つ。たまたま前の書道の飲みで芸術の話になって,それと関連して,あることを考えていました。というのは,ここに仮に一流の絵Xと,三流の絵Yがあるが,素人目にはYの方がうまく見えるとします。つまり,絵が「わかる」人Aは,一流の絵Xを褒め,絵が「わからない」人Bは,三流の絵Yを褒めるとします。ここでXとY,AとBの本質的な違いは何か,あるいはそもそも本質的な違いなどあるのか,という問題です。形の上ではXとY,AとBは対称であり,唯一異なる点は掛かる形容句です。すなわち,一流の絵か三流の絵か,あるいは絵が「わかる」か「わからない」か。しかし,何をもって一流とか「わかる」とか言ってるのか考えますと,AはXが一流の絵だと「わかる」から絵が「わかる」のであり,Xは絵が「わかる」人Aが一流だと言うから一流なのであって,ニワトリが先かタマゴが先かで,何かの拍子にYが一流の絵ということになると,まるきり論理が逆転します。となると,結局芸術にしてもそれ自体で良し悪しが決められているのでなく,外在的・政治的な要因で決められているのではないか。
そういうことを考えてますと,これも『文章読本』からの引用ですが,
「感覚と云うものは,一定の練磨を経た後には各人が同一の対象に対して同様に感じるように作られている,……そうしてまた,それ故にこそ感覚を研くことが必要になって来るのであります。」
とあり,つまりAの方が多くの絵を見ていて,また,Aのように多くの絵を見た者は皆Xを良しとする,これこそがAとB,XとYの違いではないかと。
でも,やっぱり外在的・政治的な要因も否定しきれないと思います。ピカソはゲルニカ爆撃の告発が反ファシズムの流れにうまく乗って一躍有名になったのでしょうし,顔真卿も最期まで信念を貫き通したその誠実さが評価されたのだと思います。もちろん,外在的・政治的な要因だけではないでしょうが,一つの大きなきっかけであるはずです。あと,よく絵や書を見る人がピカソや顔真卿を良しとするのも,単にピカソや顔真卿を良しとするパラダイムに慣れただけかもしれません。どうでしょうか。